幼いころから織田信長の教育係を務め、信長が成人してからは参謀役も務めたとされる、禅宗の僧と言えば?
沢彦 宗恩です。
選択肢の三人についてそれぞれWikipediaの情報を紹介します。
沢彦 宗恩(たくげん そうおん)は臨済宗妙心寺派の僧。後に大住持。
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となった。自刃した平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。信長が美濃国を攻略した際には稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国 周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。
「心頭滅却すれば火も亦自ずから涼し」という辞世で知られる快川紹喜と兄弟の契りを結んでいたとされる。
岐秀 元伯(ぎしゅう げんぱく、生年不詳 - 永禄5年10月23日(1562年11月19日))は、戦国時代の臨済宗妙心寺派の禅僧。甲斐国甲府の長禅寺住持。
当初は尾張国瑞泉寺にいて、大宗玄弘に師事してその法嗣となっていたが、甲斐国守護の武田信虎の室である大井夫人に招かれて西郡の長禅寺(古長禅寺)に移った。岐秀は信虎の嫡男である晴信(信玄)の養育に貢献したとされ、後に長禅寺は城下町として整備されていた甲府に移す事を許された。『高白斎記』に拠れば、天文21年(1552年)には長禅寺で大井夫人の葬儀を行う。また、『甲陽軍鑑』に拠れば、天文21年2月12日には晴信の出家に際して得度式を務め、「信玄」の法名を与えたという。
快川 紹喜(かいせん じょうき、生年不詳 - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身。諱は紹喜。字は快川。
妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めている。甲斐では信玄に機山の号を授けている。
織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げた。このとき残した「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世で知られるが(杜荀鶴の原典は「…火も自ずから涼し」)、これは『甲乱記』では快川と問答した高山和尚の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている。
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posted by さむらい龍馬 at 08:28|
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